シュメットーさんとピージックさん
2003年12月9日
原謙三国際特許事務所
翻訳部 長井木綿
帰国して約半年後に当事務所での就職が決まった。ドイツ語の明細書を和文にする仕事である。日々ドイツ語と向き合える仕事につけたことは、私にとってとてもラッキーなことだと思っている。
ドイツ語の習得に初めてまじめに取り組んだのは、ミュンヘン大学付属の語学学校においてであった。出来がよくなかったので、厳しさで有名なフラウ(女性の苗字につける敬称)・シュメットーを紹介され、彼女に個人授業をつけてもらうことになった。
彼女は75歳くらい、身長は170cmくらいある、非常に大きな女性である。いつも目を見開いて「分かっていますか?フラウ長井?」。しかし実際の口調は、「わかってるのぉ!あんたは!!!」というように聞こえるほど強圧的であった。普通は程なく苗字ではなく名前で呼びあうようになるものだと思うが、フラウ・シュメットーはそうではなかった。育ちやプライドの高さが彼女に敬語を使わせるのだろう。
フラウ・シュメットーの家族は、当時ドイツ領であったシュレジエン(今のポーランド領シロンスク)に住んでいた、470万人のドイツ人の中でも裕福な一家族であった。戦後、ポーランドの成立と共に旧ドイツ領からドイツ本国への移住が強いられたのを受けて、フラウ・シュメットーも、子供と共になんとオーストリアのザルツブルクまで歩き、その後ミュンヘンに移り住んでドイツ語教師として生計をたててきたのである。
人の褒め方を知らず、軽くけなすことが彼女なりの愛情表現の1つだったように思う。とにかくよく話す人だったので、この個人授業のおかげで私のヒアリング力は伸びたに違いない。
その後、私はベルリンの大学に入学することになった。ベルリンでの住居も、フラウ・シュメットーの紹介によって決まった。なんと彼女は私に内緒で自分の息子の家を紹介したのである。フラウ・シュメットーは、私の引越しを手伝うと言い出し、「あんた!荷物多すぎるのよ!」と愚痴をこぼしながらも自分の車にぎゅうぎゅうつめて、当時まだあまり整備されていなかった旧東ドイツのアウトバーンを気にもとめずにぶっ飛ばした。息子に会いたい気持ちでいっぱいだったのではないかと思う。この息子(55歳くらい)、ヘア(男性の苗字につける敬称)・ピージックもまた、フラウ・シュメットーと似てプライドのとても高い人であった。二人はお互いに素直に愛情表現をせず、子供のような喧嘩ばかりしていた。
ヘア・ピージックは、ベルリンの高級住宅街にあるハウプトシューレ(義務教育後期過程で小学校5−9学年。大学進学を目指す人および職業訓練を行う人以外が行く学校)でフランス語の先生をしていた。生徒たちに慕われる先生を夢見て職についたが、現実は大違いであった。この学校は、ピストルなどの武器や麻薬を所持した生徒たちに対して、ドイツで初めて警察のがさ入れが行われたほどの学校である。ヘア・ピージックは2時過ぎに帰宅して家で仕事をし、よく生徒たちに対して悪態をついていた。そして夕食時から赤ワインをかっくらって寝ながらロットを楽しむのが日課であった。
このおじさんを支えているものは、これまたフラウ・シュメットーの息子らしく、生まれ・育ちのよさであり、知識人であるというプライドであったように思う。特に、彼の父が、彼らが住んでいた村のナチスに対する抵抗運動において指導的役割を果たした人であったということが、彼の大きな支えになっていたと思う。しかし、丁度私がピージック家に滞在している間に、彼の父が実はナチ抵抗運動の影で、ユダヤ人迫害に携わっていたという歴史的見解が、ドイツ一のインテリ雑誌『シュピーゲル』に掲載された。彼のショックは相当のものだったに違いない。
フラウ・シュメットーとヘア・ピージックを通じて、彼らが生きた時代からにじみ出る悲しさ・苦しみのようなものを感じたように思う。それは、戦後の旧ドイツ領からの強制移住、ナチス時代というドイツにとって逃れられない負の遺産、そこから生じたベルリンの特殊な歴史、1989年のベルリンの壁崩壊、などの出来事が、個々人に与えたものなのかも知れない。
このような彼らの経験を聞き対話した愛着のあるドイツ語に日々接することができるのであるから、明細書を訳すときもドイツ語のニュアンスをより正確に汲み取ることができるように日々努力したいと思っている。そうすることによって、いつか彼らとより深く対話できるようになれればと思っている。